「親が認知症になったら、預金が下ろせなくなる・実家が売れなくなる」——その対策として並べて語られるのが家族信託と任意後見です。どちらも親が元気なうちにしか契約できない点は同じですが、できることの範囲も、かかるお金の性質もまったく違います。
この記事は、2026年7月30日時点の公的情報(厚生労働省「成年後見はやわかり」、日本公証人連合会、全国銀行協会)をもとに、編集部が違いと選び方を整理したものです。専門家の監修は受けていません。実際の契約は司法書士・弁護士等にご相談ください。
先に結論:3行で言うと
| 財産だけ | 実家の売却・預金の管理などお金と不動産の管理が目的なら家族信託。裁判所の監督がなく機動的。ただし身上保護はできない。 |
| 生活も | 施設の入所契約・入退院手続きなど身上保護まで任せたいなら任意後見。公正証書での契約が必須で、公証役場の基本手数料は11,000円。 |
| 両方 | 実務では併用も選択肢。財産管理を信託、身上保護を任意後見に振り分ける形です。 |
いちばん大事な期限:どちらも本人の判断能力があるうちにしか契約できません。認知症が進んだ後に残る選択肢は、原則として法定後見だけです。
決定的な違いは3つ
違い1:身上保護ができるかどうか
家族信託は信託した財産の管理・運用・処分に特化した仕組みです。老人ホームの入所契約を結ぶ、入退院の手続きをする、介護サービスの契約をするといった身上保護(身上監護)は家族信託ではできません。ここは任意後見(および法定後見)の領分です。「親の生活そのものを支える権限」が要るのかどうかが、最初の分かれ道になります。
違い2:家庭裁判所が関与するかどうか
任意後見は、家庭裁判所が任意後見監督人を選任することで初めて効力が生じます。監督人は任意後見人から財産目録などを提出させて監督し、その事務を家庭裁判所に報告します。つまりチェックが入る代わりに、機動性は落ちます。
家族信託は当事者間の契約で、家庭裁判所の監督下には置かれません。受託者(多くは子)の判断で不動産の売却なども進められる一方、監視役が自動的には付かないため、身内での不信感やトラブルの芽にもなります。心配なら契約で信託監督人を置く設計もできます。
違い3:いつから効力が始まるか
家族信託は契約した時点から効力が始まり、受託者が信託財産の管理を開始します。任意後見は契約しただけでは動きません。本人がひとりで決めることに不安が出てきた段階で、家庭裁判所に任意後見監督人の選任を申し立て、選任されて初めて発効します。この「発効までのタイムラグ」を知らずに「契約したから安心」と思い込むのが典型的な失敗です。
| 比較項目 | 家族信託(民事信託) | 任意後見 |
|---|---|---|
| できること | 信託した財産の管理・運用・処分 | 契約で定めた財産管理+身上保護 |
| 契約の方式 | 契約書(実務では公正証書が一般的) | 公正証書が法律上必須 |
| 効力の開始 | 契約時から | 家庭裁判所が任意後見監督人を選任した時から |
| 監督 | なし(契約で信託監督人を置くことは可能) | 任意後見監督人+家庭裁判所 |
| 続くコスト | 受託者が家族なら無報酬の設計も可能 | 監督人の報酬が本人の財産から継続的に発生し得る |
| 取消権 | なし | なし(悪質商法の契約を取り消す力は法定後見の領分) |
お金の話|公的に決まっている費用と、決まっていない費用
比較でいちばん誤解されるのが費用です。任意後見は公的に金額が決まっている部分が多く、家族信託は決まっていません。まず「決まっている方」から確認しましょう。
任意後見でかかる、金額が公表されている費用
任意後見契約公正証書の作成に必要な費用
さらに、実際に使い始めるとき(任意後見監督人の選任申立て)に、申立手数料の収入印紙800円と登記手数料の収入印紙1,400円、連絡用の郵便切手が必要です。本人の精神の状況について鑑定が必要な場合は、鑑定費用を申立人が負担することがあります。
そして見落とされがちなのがランニングコストです。任意後見人の報酬は契約で決めますが(家族が無報酬で引き受ける設計も可能)、任意後見監督人には家庭裁判所への報酬付与の申立てにより、家庭裁判所が決めた報酬が本人の財産から支払われます。監督人は任意後見受任者の近い親族(配偶者・直系血族・兄弟姉妹)はなれず、弁護士・司法書士・社会福祉士・税理士などの第三者専門職が選ばれることが多いため、本人が亡くなるまで続く費用として見込んでおく必要があります。
家族信託の費用は「相場」しかない
家族信託の組成費用に、公的に定められた金額表はありません。事務所ごとの自由価格で、信託財産の評価額に対する料率で見積もる方式が一般的だと説明されます。これに公正証書を作る場合の公証役場の手数料、信託財産に不動産を含める場合の信託の登記にかかる登録免許税と司法書士報酬が加わります。登録免許税の税率は不動産の種類や適用される特例によって異なるため、着手前に内訳つきの見積もりを取るのが唯一の防衛策です。
費用比較で見るべきは「初期費用」ではなく「生涯コスト」
家族信託は初期費用が大きく、その後は家族が受託者なら追加費用が抑えられる設計にできます。任意後見は初期費用が小さい代わりに、監督人の報酬が発効から本人の死亡まで毎年発生し得ます。親が80代で発効までが短いのか、60代で20年以上続き得るのかで、総額の大小は逆転します。
任意後見を選んだ場合の時系列タイムライン
任意後見は「契約して終わり」ではありません。契約から発効、そして終了まで、どこで何が起きるかを先に把握しておくと迷いません。
STEP 1|判断能力があるうちに
誰に何を任せるかを決める
任意後見人になってもらう人(任意後見受任者)と、代わりにしてもらいたいことを話し合って具体化します。ここを曖昧にすると、いざ発効しても「その手続きは委任事項に入っていない」となります。
STEP 2|公証役場
任意後見契約を公正証書で結ぶ
任意後見契約は公証人の作成する公正証書によることが法律上の要件です。基本手数料11,000円、登記嘱託手数料1,400円、登記所に納付する印紙代2,600円のほか、証書代・切手代がかかります。契約は法務局に登記されます。
STEP 3|判断に不安が出てきたら
家庭裁判所へ任意後見監督人の選任を申し立てる
申立てできるのは本人・配偶者・四親等内の親族・任意後見受任者。申立先は本人の住所地の家庭裁判所です。申立手数料800円分と登記手数料1,400円分の収入印紙、連絡用の郵便切手を用意します。
STEP 4|申立ての添付書類
診断書・登記事項証明書・財産資料をそろえる
本人の戸籍謄本、任意後見契約公正証書の写し、成年後見等に関する登記事項証明書(法務局・地方法務局の本局発行)、家庭裁判所が定める様式の診断書、不動産や預貯金の資料などが標準的な添付書類です。
STEP 5|審判
任意後見監督人が選任され、ここで初めて発効
本人以外の請求で選任の審判をするには、原則として本人の同意が必要です(本人が意思表示できないときは不要)。選任により契約の効力が生じ、任意後見人は監督人の監督のもとで契約に定めた法律行為を代理します。
STEP 6|発効後ずっと
監督人への報酬が本人の財産から発生し得る
監督人が家庭裁判所へ報酬付与の申立てを行うと、家庭裁判所の決定した報酬が本人の財産から支払われます(家庭裁判所の許可なく受け取ることはできません)。
STEP 7|これだけは覚えておく
後見開始の審判との前後関係で結論が変わる
任意後見監督人の選任前に後見開始等の審判がされた場合、任意後見契約の効力は失われません。選任後に後見開始等の審判がされた場合は、任意後見契約は終了します。なお法定後見への移行は「本人の利益のために特に必要があると認められるとき」に限られます。
損しないポイント|先に知らないと取り返しがつかないこと
「あとから」ではどうにもならない5つ
- 判断能力が落ちてからでは、どちらも契約できません。残るのは法定後見(後見人は家庭裁判所が選ぶため、家族の希望どおりとは限りません)。
- 任意後見は契約しただけでは1円も動かせません。監督人の選任申立てを誰がするかまで決めておかないと、いざというとき止まります。
- 委任事項に書いていないことは代理できません。不動産の売却・自宅の賃貸・保険の手続きなど、想定される行為を洗い出して契約に入れておく。
- 家族信託に入れていない財産は守れません。信託した財産だけが対象です。年金が振り込まれる口座など、信託できない・しない財産の扱いを別に決めておく必要があります。
- 家族信託では身上保護ができません。施設入所や入退院の手続きを想定するなら、任意後見の併用を検討する。
あなたの場合はどうなる?パターン別の分岐
| あなたの状況 | 向いている選択肢 |
|---|---|
| 主な財産は実家(不動産)で、いずれ売って施設費用にあてたい | 家族信託。裁判所の許可を待たずに売却の判断ができるのが最大の利点。ただし施設の入所契約自体は別問題(下段参照)。 |
| 施設入所や入退院の手続きを子が担うことになりそう | 任意後見。身上保護は家族信託ではカバーできません。 |
| 兄弟姉妹が複数いて、財産管理を任せる一人に不安の声が出そう | 任意後見(第三者の監督人が入る)か、家族信託+信託監督人。「見える化」の仕組みを最初から入れておくのが、もめない最大の投資です。 |
| 親はまだ60代で元気。とりあえず備えておきたい | 発効までの期間が長いなら、監督人報酬が長期に及ぶ点を織り込んで比較を。任意後見契約を結んでおき、発効は必要になってから、という設計は可能です。 |
| 財産管理も生活の支えも両方必要になりそう | 併用。財産(特に不動産)は信託、身上保護は任意後見、という役割分担が実務での定番です。 |
| 親がすでに認知症で、判断能力に不安がある | 残る選択肢は原則法定後見です。家族の希望どおりの人が後見人になるとは限りません。 |
| 悪質商法の契約をしてしまうのが心配 | 結んでしまった契約を取り消す力(取消権)は法定後見の領分で、任意後見・家族信託にはありません。 |
現場で起きるイレギュラーと対処法
ここからは制度の説明ではなく、家族が実際にぶつかる論点です。体験記やブログで繰り返し語られる話を、公的な情報と突き合わせて整理しました。個別の可否は金融機関・家庭裁判所によって扱いが異なるため、必ずご自身のケースで確認してください。
1. 「口座凍結」は自動では起きない。だが、窓口で言った一言で始まる
認知症と診断された瞬間に銀行のシステムが口座を止めるわけではありません。実際には、家族が窓口で「本人は認知症で来られない」と伝えた時点や、本人の受け答えに銀行が不安を感じた時点から取引が制限される、というのが体験談として最も多く語られるパターンです。これは金融機関が本人の財産を守るための対応でもあります。
関連して知っておきたいのが、全国銀行協会が2021年2月に公表した「金融取引の代理等に関する考え方」です。ここでは、本人の認知判断能力が低下し、かつ成年後見制度を利用していない場合に、医療費の支払いなど本人の利益に適合することが明らかなときに限り、親族等の依頼に応じることが考えられる、という考え方が示されています。あくまで例外的な整理であり、これに頼る前提で対策を先送りするのは危険です。
2. 金融機関が信託口座を作ってくれないことがある
家族信託では、受託者が信託財産を自分の財産と分けて管理するための口座(いわゆる信託口口座)を用意します。ところが、この口座の開設に対応している金融機関は限られており、対応行でも信託契約書の事前審査を求められることがあります。契約書を作り込んでから金融機関に断られる、という順番の失敗が起きやすいところです。設計の早い段階で、口座を開ける金融機関を確認してから契約内容を詰めるのが安全です。
3. 診断書の様式は家庭裁判所ごとに違うことがある
任意後見監督人の選任申立てで必要な診断書は、家庭裁判所が定める様式のものです。裁判所ウェブサイトに一般的な書式が掲載されていますが、家庭裁判所によっては項目を付加するなど適宜変更した書式を用意している場合があります。申立書のほかに財産目録・収支予定表・事情説明書などの提出を求められることもあります。先に管轄の家庭裁判所のページを確認してから主治医に依頼すると、書き直しの手間が減ります。
4. 「本人の同意」が要るタイミングがある
本人以外の方の請求で任意後見監督人選任の審判をするには、本人の同意を得る必要があります(本人が意思表示できないときは不要)。つまり、本人がまだ話せる段階で「そろそろ発効させよう」と切り出す場面が来るということです。この会話を想定していない家族が多く、実務では最もデリケートな局面になります。契約の時点で「どういう状態になったら発効させるか」を家族で言語化しておくと、この会話が格段に楽になります。
相場観と編集部の価値判断|どこまでやるか
ここからは編集部の見方です。判断材料としてお読みください。
この分野の相談窓口は、司法書士事務所・信託専門会社・保険代理店など提供側の立場によって勧める答えが変わりやすい領域です。家族信託を扱う事務所は家族信託を、後見に強い事務所は任意後見を勧めがちで、しかも「フルセットで組む」ほど報酬が増える構造になっています。ここは意識して距離を取るべきところだと考えています。
堅実に済ませたい人はここまで
財産が自宅と預貯金くらいなら、まず任意後見契約だけ結んでおくのが費用面の負担が軽い入口です。公証役場の基本手数料は11,000円で、金額が公表されているぶん見通しが立ちます。あわせて親の資産の棚卸し(口座・保険・不動産の一覧化)をしておくだけでも、いざというときの家族の負担は大きく変わります。
こだわりたい人はここまで
収益不動産がある、実家を確実に売れる状態にしておきたい、二次相続まで設計したい——という事情があるなら家族信託を組み、身上保護は任意後見で補う併用が合理的です。ただし初期費用は数十万円規模になり得るため、内訳(組成報酬・公証役場手数料・登録免許税・司法書士報酬)を分けた見積もりを必ず取り、2社以上で比べてください。
判断の軸は「どちらが得か」ではなく「親のどの困りごとを、誰が、どの権限で解決するのか」だと考えています。困りごとが「お金が動かせない」なら信託、「生活の契約ができない」なら後見。この整理をしないまま商品を比べると、高い方を選んでも困りごとは残ります。
よくある質問
任意後見契約は公正証書でないとダメですか?
はい。任意後見契約は公証人の作成する公正証書によって結ぶものとされています。作成の基本手数料は11,000円、登記嘱託手数料1,400円、登記所に納付する印紙代2,600円で、このほか正本等の証書代や登記嘱託書の郵送用切手代がかかります。
任意後見監督人には誰が選ばれますか?家族はなれますか?
弁護士・司法書士・社会福祉士・税理士などの専門職や、法律・福祉に関わる法人といった第三者が選ばれることが多くなっています。任意後見受任者本人や、その配偶者・直系血族・兄弟姉妹は任意後見監督人にはなれません。本人に対して訴訟をしている(またはした)者、復権していない破産者も同様です。
家族信託を結べば、施設の入所手続きも子ができますか?
できません。家族信託でできるのは信託した財産の管理・運用・処分です。老人ホームの入所契約や入退院の手続きといった身上保護は任意後見(または法定後見)の役割で、両方が必要なら併用を検討することになります。
任意後見契約を結んだあとに法定後見を使うことはできますか?
できます。ただし、任意後見契約の内容だけでは本人を保護できない場合で、本人の利益のために特に必要があると認められるときに限られます。なお、任意後見監督人の選任前に後見開始等の審判がされた場合、任意後見契約の効力は失われませんが、選任後に後見開始等の審判がされた場合は任意後見契約は終了します。
親が認知症になってからでも間に合いますか?
家族信託も任意後見も、本人に契約する判断能力があることが前提です。判断能力が不十分になった後に残る選択肢は原則として法定後見で、後見人は家庭裁判所が選任します。家族の希望どおりの人が選ばれるとは限らないため、「まだ元気だから」と先送りしないことが実質的な唯一の対策です。
関連記事と出典
暮らしの手続き全般は暮らしの手続きガイドにまとめています。亡くなった後の話は相続・お葬式ガイド、口座が止まったときの対応は死亡による口座凍結と仮払い制度、スマホやネット口座の備えはデジタル終活とデジタル遺品の片づけ方もあわせてご覧ください。
出典(2026年7月30日確認)
・厚生労働省「成年後見はやわかり」任意後見制度とは(手続の流れ、費用)
・厚生労働省「成年後見はやわかり」法定後見制度とは(手続の流れ、費用)
・日本公証人連合会「任意後見契約」
・法務省「任意後見制度を知っていますか?」パンフレット(PDF)
・全国銀行協会「金融取引の代理等に関する考え方および銀行と地方公共団体・社会福祉関係機関等との連携強化に関する考え方について」(2021年2月)
※本記事は編集部が公的機関の公表情報をもとに整理したものです。専門家の監修は受けていません。制度の運用は個別事情や管轄によって異なります。実際の契約・申立てにあたっては、司法書士・弁護士等の専門家や、お住まいの地域の権利擁護支援の相談窓口にご相談ください。
